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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼安住の地


予防医学のカイロプラクティック

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考える事は哲学だよ 何でも考えてみよう 独断と偏見のコーナーです 

安住の地

私たちに安住の地はあるんでしょうか?

確かに私はいま日本に住んでいますから、
この日本という地は安住の地に違いありません。
それは今私が日本に生まれているからだという事ですね。

「安住の地」という意味を考えてみたい。
そういう衝動を、最近のテレビ番組を見て思いました。

「安住の地」というと、どういうイメージを持つものでしょうか?

私にとってはユダヤ人の流浪を思い出します。
旧約聖書からの問題ではありますが、モーゼ由来の問題です。

しかしユダヤの民は過去において、国籍とか、国が無かった為に、パレスチナに入植・植民地化を図りました。

それから中東問題は、一気に国際問題として、火種になりました。

この問題には、「人種」という問題があります。
人間にとって「人種」という枠・範囲・考え方・現実は、本当に元来あるものでしょうか?
また必要とするものなんでしょうか?

よく考えて欲しいのです。

私は今、日本人の両親のもとで生まれ、日本人として生きています。
日本が歴史的に何年来続いているのか判りませんが、日本の国に住んでいて、日本語を学んでいて、今この字や日本語をパソコンで打っているのが現実です。
これは紛れもなく事実です。

「私」が採用しているこの行為を日本語でなければ、日本語で表現しなければ、「私」は理解できません。

また日本語を理解できる人とコミュニケイトを行う為にも、この日本語でなければコミュニケイトが出来ないから、日本語を利用しているのです。


勿論私が、英語や他の国の言葉を自由に扱う事が出来て、その意思疎通が出来るのならば、その言葉を利用して、パソコンに向かって同じ行為をしていることでしょう。

でも、私は日本語しかわからない日本人ですから、日本語を駆使してこの様な行為をしているのです。

そして長い「自分史」の中で、今の私の考え方の中に、思考・記憶の中に、日本人としての「自覚」が存在しているから、日本人として、「私」を確信・認知しています。

でも、「私」が他の国で生まれていたならば、「私」は、その国の人間として考えていることでしょう。
当然、使用する国語はその国の国語になるのは当たり前ですね。

こんな事考えなくても当たり前だ、という判断は誰もが出来る事です。
しかし本当にそうなんでしょうか?


私たちの考え方の前提には、どうしても今まで言って来ました、「国民」としての自覚が存在し、「教育」によって私たちが日本人としての生き方を学んで来たから、今はただ日本人として、自覚をさせられているという判断も出来るのです。


同じ私が、この肉体を持ったまま、アメリカで生まれていたならば、今私はアメリカ人として物事を考えている事でしょう。
勿論アメリカ英語を利用して判断している事でしょう。

でもいま「私」は、この肉体も、私の意思も、この日本という土地に住んでいる環境で、物事を日本語で考え、実行しているだけなのです。


心の不満や喜びも悲しみも、全て、日本語で実行しているのです。

本当に環境というものは、人間をしっかりとその色に染めてしまうものだという事を、証明するものです。

しかし、私自身、この日本を安住の地だとは思えないのです。
「安心して住める」
という問題を考えているのではありません。

本当に私には、また人類には、「安心の地」が存在しているのでしょうか?

この問題定義が、このセクションの疑問点なのです。


人類が発祥したのは、考古学的にハッキリとした年代を示す事は出来ません。

考古学者が色々研究し、発掘をしていますが、おおむね四百万年前とも言われています。

またそれ以外に、三億年前の化石から、人類の足跡としての化石も発見されています。

またボルトのような、金属加工品が化石として、三億年前の地層から発見されています。
でも考古学会においては、この事実を認める見解をしないものと思います。


どうしても、殺人事件の立証と同じ様に、物的証拠が必要です。

しかし、その証拠も、人間が予測できる、また、把握できる範囲での立証でなければならない様な雰囲気を感じます。


「理解できない、それは不可能だ」という判断が目の前に現れた時に、人は「立証するには不可能である」と決めてしまうと、事実を解明できないと抹消する方向に走ってしまいます。
判らないことは無かったことにしよう、という方向に行こうとします。

どうして実際に起こっている事実を、抹消しようとしてしまうのでしょうか?

それには、基本的に、我々が「常識」として学んで来た、それまでの学術論から言えば、常識では「判断できない問題」としてしか処理が出来ないからでしょう。

簡単に言えば、「常識」という考え方が、未知数な問題を駆逐してしまう傾向になります。

ユダヤの民を四十数年間も流浪させたモーゼの苦労は大変な苦労だったと、いま私は思います。私がモーゼなら、ここまで連れて行くことは出来ないでしょう。

モーゼの映画を見たときにも、その気持は感じました。
しかし映画は、本当の歴史かどうかはわかりませんが、どの様に脚色しても映画は映画です。

史実を映像に映し出す事は、厳格に不可能ですが、その内容の意味を映し出す事は可能であろうと思います。
だからこそ、映画監督さんは、その技量を試されるんだと思います。

だが問題点は、史実が本当だったのかどうかという点もありますが、史実の中にある人間の思いまで、確実に正確に表現できる事はありえません。


しかし私は今日本語で本を読んだり、話したりして、史実を理解しようと、多くの文献を読んで、その概要を理解することが出来ます。

そして、きっと主人公はこう思い、こう考えてこの様な行動を採ったんであろうと理解し、無理やりにその歴史を考えています。


ユダヤの人々は、現在、中東諸国の中に孤立しながら国を建立しました。
やはりユダヤ教の教えを全てとして信じているがために、その発祥の地に国を造りたいという思いが募って、無理矢理、国際世論を押し切って、国造りを現実化してしまいました。


彼等には知能が突出している人種として、考え方の特殊な人類として、我々はユダヤ人に対して歴史学的に学んで来ましたが、確かに、華僑と共に世界の経済を動かしている事は事実ですし、軍事力という問題においても彼らはそれなりの力を持っています。

その力を持っているがために、彼らを恐怖の対象者として、一目置いているのが中東の人々であるかも知れません。

しかし、ユダヤの民は、自らが特殊な、「神から選ばれた民族」として、自分を高見に置いています。

「神から選ばれし民族」、その考えが、彼らを自らの苦しみの淵に追いやっているのも事実でしょう。

それは、彼らはユダヤ人として生まれ、その出生を自覚してから、自分自身の認知・確認しているだけに過ぎません。


「人」はユダヤの民と同様に、自分をそれぞれの民族の一員として自覚しているだけなのです。

この自覚が、民族意識として、
その人種であるという判断をしているに過ぎないと思うのです。

その基本的な人種としての色分けは、肉体的な遺伝的形態から来る姿、そして利用している言語で色分けをしていると云う事です。

本当に人間は、その様な狭い、狭小な考えで物事を決め付けても良いものでしょうか?
そして人類は、
その様な人種という存在を決め付ける必要があるものでしょうか?


これだけ科学が、「神の領域」に侵入しているのに、
なぜ人は事実の結果に向き合う事が出来ないのでしょうか?

客観的に理解すれば判るのに、どうして人は簡単に、解らない・理解できない・不可思議だという考えを、抹消してしまおうとするのでしょうか?
余りにも単純すぎるのではないでしょうか? そして短絡的に成り過ぎていないでしょうか?


物事が解らないからこそ、探求し研究し、その意味を理解する努力を、人はしているのだと思います。

我々は実際に、この肉体を安定して維持できる場所を探しているに過ぎないのかも知れません。

その場所を、安住の地として自覚しようとしているのかも知れません。
でも、安住の地は、本当に安住の地になるんでしょうか?


人は転生輪廻を続けている生命体です。

勿論、転生輪廻は、
人だけに与えられている特権でもなんでもありません。

どの生命体も、転生輪廻を受け入れ、その転生輪廻を通じて、この肉体物質を頂き、肉体物質を動かす事で、多くの精神的な学びを理解する旅路を続けています。


この旅路には、この地球の存在が不可欠な要因です。

この地球の存続が無ければ、この地球上での旅は出来ません。
そして
肉体を持っての「心の修行」は出来ません


人があの世からこの世に生まれる事を、どれだけ把握して理解していることでしょうか?

闇雲な話でも何でもありませんが、現在社会での勉強では、このよう話は絶対にありません。
しかし神様の存在を理解している社会では、当然のように喋られる話しです。


科学一辺倒の現在の人類が持っている知識では、「神の存在を否定する」までになってしまっています。

しかしこれを「人類の心の荒廃」だと決め付けるものではありません。

それよりも、人類が力を示していると、錯覚している事実を理解していないところに恐怖心を私は持ちます。
「怖いもの知らず」という心境です。


人は転生輪廻をし、その時々に生まれる土地は全く違います。

勿論生まれて来る目的によっては、
何度も同じ所に生まれる方も居られるかも知れません。

どこで生まれるかは、生まれる前にあの世で把握しているそうです。
それは登録所で登録をして、生まれて来るといわれています。


この話は荒唐無稽な話に聞こえるでしょうが、私はそう思っていません。

実際、あの世は存在しており、その次元こそが我々魂の本当の地だからです。

それ故に、この地球上で生まれた時の土地は、その時の魂の修行上の位置地点であるという事にしかなりません

それだけの事です。
それが、どこの国になるのかは、自分の心の問題、人との関係や、その時代の環境・歴史と言語文化的な問題になります。


そう考えますと、民族という問題も、国という問題も、実は魂にとって、表面的には大きな問題ではないという事になってきます。

それを大きな問題として捉えるのなら、この小さな地球上で生きていく上において、自分の行動を規制するための足かせになってしまうと思います。


勿論ある魂にとって、民族的な問題で心の解決が出来なかったままあの世に帰った魂達は、やはり民族問題は大きな問題になることでしょう。

またその問題に対して、自分で回答を得るために、修行のやり直しをしなければならない事もあるでしょう。

またそれらを解決した魂は、また違った方向の問題点を改める修行のために、この世に輪廻し、自分の問題として取り組んでゆく事でしょう。

勿論、生まれて来る魂には、それぞれの生まれて来る目標がその魂の意識の中にあります。

その目標とは、心の汚れ、心の歪みを正すために生きる、過去に果たせなかった問題をやり直し、修正するために、「生まれて来る目標」を持って来ているとも言われています。


どこで生まれるのかを理解し、生まれて来れるのですから、それなりの覚悟は必要です。
当然目標に向かって覚悟をして生まれて来ます。

でも、この地球上で生きて行くのも冒険です。

自分の人生がどのようになって行くのか解らない。

それがこの地球上での修行であり、厳しさでもあります。


だからこそ、人は努力をして行こうとします。

負けたくない、頑張りたい、その気持で、厳しい現実と向かい合うわけです。

その生き様を通して、人は自分の「心の修正」を図っているのです。


安住の地は、実は無いのでしょう。

どこで生まれるのかは、その魂が知っているとしても、安住の地としてその土地に縛られる必要は、魂にとって必要な考えでは無いという事になります。

人は、民族という考えも必要が無いものとして自覚する必要があります。

民族として考えると、人はどうしても弱い存在ですから、「烏合の衆」として集まりたがります。

それは、自分の意思の疎通を図るためには、同じ言語を利用する必要があるために、その言語を持っている者同士が集まります。

それが、歴史を通じて、同じ環境を通じて、民族として考えてしまった結果ではないでしょうか。

「自分は民族の一員」として考える方が、心が安らぐのかも知れません。
しかし民族も、実は作られたものです。


人間に、「統一された言語」があれば、民族は必要がありません。

宗教も同じ様に、「一つ」であれば、争う事もありません。


「安住の地は無い」と言ってもいいのではないでしょうか。

ただこの地球こそが、安住の地とするのならば、この安住の地を平和な環境にして行くことこそが、人類がこれからの歴史も含めて行わなければならない現象だと思います。


地球上のどの民族も、人類史を振り出しにして、根本を見つめ直す事が必要ではないでしょうか?


現実的に人類が、本当は他の天体から飛来したものである事を理解できる人は、果たして何人いるのでしょう?

この設問を、心から真剣に考える人は、何人存在しているのでしょう?

荒唐無稽だと、反射的に思う人は何人居るでしょう?

反射的に考える事とは、一体どういう意味が隠されているのでしょう?


考える事こそ、人間としての本質です。

考えて生きるために、それが許されているからこそ生きていられる、この現実が肌身に感じる事が出来たら、ゆったりとした時間の中で過ごせる事ができるでしょう。

ゆったりと考えてみて下さい。


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